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  • 2007.04.08 Sunday
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勢力の変遷を語る 巨人V9〜阪神85年V

3回ぐらいに分けたいと思い、2回目であるここで、
何処で区切ろうか非常に迷ったというのはここだけの話(どうでもいい)

節目としては選手会が労働組合として認められる(80年)、逆指名・FA導入(93年)なのだが、そうなれば期間的にアンバランスな気もするので85年で区切ることにした。

んで毎度の事ながらこちら






「戦力の均衡化」をスローガンとして発祥されたドラフト会議だが、正直な所「契約金高騰の抑制」という意味合いの方が強かった気がする。元から「新入団選手をプールするべき」という声は外野から度々挙がっていたようだし、それを無視し続けた球団であったが自由競争の激しさによる契約金の上昇に音を上げ、ドラフト制度案が通るようになった(3分の2の球団が賛成し可決)、という時代背景だろう。



何といっても巨人V9がこの時期の特筆事項であり、表を見るだけでも威圧的である。
国民的クリーンアップ王貞治・長嶋茂雄を中心に、その前を打つ柴田勲・高田繁がプレッシャーを掛けて挙げた得点を森昌彦(祇晶)・土井正三・金田正一・堀内恒夫ハイクオリティな守備陣と投手陣が守る、という全員野球が当時の川上哲治監督のモットー。ONという大スターが居座っていても、決して彼らに頼りきりにならずスモールベースボールを貫いて選手のモチベーションを保っていった。そんなV9時代も後半になると、1番だった柴田がクリーンアップを勤めるようになるほど世代交代が上手くいかず苦戦したが、それでもチーム一丸の底力は凄まじく連覇を重ねていった。


この9年間のうち2・3位はというと、18のうち14枠を中日・阪神が占めるというようにこの時代も両チームの安定感は健在だった。

68年に西沢道夫監督体調不良というアクシデントがあった中日。杉下茂にとっての監督生活は阪神監督を務めたが(66年)1年足らずで離れ、そしてこの年は突然の就任で準備ができなかったのか最下位、というように全くツキが無かったといえる。
69年から巨人・東映で一時代を築いた水原茂を監督に迎える。だが水原は前2球団のような神通力はもう無く、3年かけてようやく上位へと復帰させてお役御免。その後は元巨人の与那嶺要が監督に就任し、「アンチ巨人」魂を増幅させて来るべき巨人常勝の終焉に向けて備えることとなる。

阪神は上位をキープしていたにも拘らず65年から5年間で3回も監督交代があり、詳しい事象は不明だが表向きの順位とは裏腹にそのゴタゴタさが伺える。節目となる70年に村山実がプレイングマネージャーに就任。江夏豊・田淵幸一黄金バッテリーを売りに優勝を狙うが、2年目の71年に5位に転落。72年4月で監督の座を金田正泰に譲った。
このような監督サイクルの短さ故、巨人V9が終焉しても中日とは打って変わって求心力を保てずにその後平凡なチームに成り下がってしまったのだろう。

後の4回は、広島が3位一度、大洋が3位三度である。

サンケイ(アトムズ・ヤクルト)金田の巨人移籍後とあって完全に蚊帳の外に置かれた格好である。
71年には優勝請負監督・三原脩を招くものの、コーチ陣のやりくりに四苦八苦しその手腕が全く発揮されなかった。その後は「親子鷹」として荒川博が監督に就任し話題を集めるもそれだけ。(息子は

広島の3位は根本陸夫を監督に招き、徹底した管理野球を行った結果。「超」を付けても良い凄腕フロントだった根本も監督としての才能はあまり無く、選手の意識改革は行えてもそれを持続させる事は出来なかった。ちなみに「猛練習の広島」のイメージを植え付けたのは紛れも無い根本である。

大洋は60年の優勝がまぐれとしか思えないぐらいに再び低迷。そんな中での3年連続3位は別当薫監督のものであった。山内一弘(大毎)・土井正博(近鉄)といった大砲の育成に尽力した彼らしく、ここでも田代富雄を一本立ちさせる。それにしてもこの別当の4年半と前任の三原脩の7年半以外の大洋の監督で、3年を超えて務めた者が一人も居ないのである。


前時代はほぼ南海の天下に等しかったが、その南海がにわかにおかしくなってきたのがこの時期のパリーグである。

鶴岡一人監督68年限りで退くと、後任に飯田徳治が就任。「仏の徳さん」というニックネームの通り温厚な性格だったらしく、これがチームの規律が緩まってしまった原因だったのかは不明だがいきなり最下位に転落させてしまい1年で辞任。
そして後任には現在もグラウンドに残っている野村克也がPMとなる。キャッチャーで4番という重責に加え監督という最も責任を問われる役まで務めるとはまさにスーパーマンというべきなのだが、実際の所采配はヘッドコーチのブレイザー(のちに監督となる)にほとんど一任する状態だったらしい。
死に体一歩手前ともいえた南海を建て直し、阪急に傾きつつあったパリーグの派遣の座を奪わんと奮闘。73年には勝率では2位ながら、「死んだふり」のもと前後期制プレーオフの初代王者に輝かせる。結局8年間でBクラスは2度と南海の体制を保ったものの、佐知代夫人の度重なる球団への迷惑行為が原因(とされている)で解任される羽目に。

南海の天下鶴岡辞任で終焉を告げたのだが、めきめきと力を付けてきたのが前時代ではいい所無しという球団であった阪急である。その立役者は西本幸雄監督だが、初年度が最下位なうえ優勝まで5年の月日がかかったにも拘らず辛抱したフロントも偉かったと思う。66年オフには信任投票事件で辞任一歩手前という緊迫した状況となっていただけに…
この西本の「鉄拳制裁も辞さず」という強硬な姿勢がチームの意識改革に繋がっていったのだが、ドラフト補強の成功も阪急黄金時代結成の重要なポイントであった。特に68年はその後の中心選手である福本豊・加藤英司・山田久志3人を一編に獲得するという大成功ぶり。73年のプレーオフ敗退も含めると巨人V9の間に6度1位になっており見劣りしないが、日本シリーズでは巨人の牙城は崩せなかった。

その阪急と同時期に上昇気運がやってきたのが、ずっと最下位に沈んでいた近鉄である。
大洋監督を辞して間もない三原脩を監督に招き、大洋時代を髣髴とさせる三原マジックでさしたる補強も無いまま69年には優勝争いの輪に食い込む。
この時期に蓄えた戦力で次期の岩本尭監督もそこそこの戦果を挙げたが、73年に最下位に沈み、阪急黄金時代を作った西本にチームを託すこととなる。

躍進する球団があれば落ち込む球団もあり。南海と覇権を競っていた西鉄は全く良い所が無く、おまけに69年オフに始まった黒い霧事件でエース・池永正明を中心に主力投手が総退場するという体たらくで、70年からの3年連続最下位を経てついに72年オフに身売り。太平洋クラブライオンズと名を変えることに。

水原茂監督によって強豪球団に落ち着いたかに思われた東映だが、大下弘への監督交代で一気に転落。「暴れん坊軍団」は規律を持たないただの野蛮な集団と化していき、誰が指揮を執っても上手くいかない時代が続きついに身売り。日拓時代のゴタゴタを経て、優勝請負人・三原脩を球団社長に迎えた日本ハムファイターズが誕生したのが74年である。

69年に東京からチームを引き継いだロッテオリオンズは67年に就任した濃人渉監督の下、70年にリーグ優勝を果たす。しかしそこは中日時代も一筋縄で行かなかった濃人、この年優勝決定時に真っ先に永田雅一オーナーが胴上げされた事から恨みを抱き、71年シーズン途中で放棄試合を起こした際その責任を取る形で二軍降格しオフに退団。
74年にも金田正一監督の下優勝し、今度は日本一に輝く。両年とも有藤道世・山崎裕之・木樽正明らが主力となり、後者には村田兆治が加わった。



ついに巨人V9が途絶えたのが74年。同時に日本一もパへと移り、セではようやく勢力図の変遷が起きた。

74年に巨人を止めたのは中日だった。与那嶺監督の下「アンチ巨人勢力」を結成し、その中心的存在がエース・星野仙一だった。
このアンチ巨人魂はその後も健在で、近年の落合博満が果たした2度の優勝以外は、何と2位チームが全て巨人である。親会社の中日と読売の関係同様、野球でもこのアンチ魂を下に戦ってきた訳だ。

これで中日の天下かと思いきや、意外な伏兵現る。翌75年にはこれまでAクラスすら1度しかなかった広島いきなりの優勝を果たす。
根本が取り込んだスパルタ精神は、根本辞任後は「ただ時間が長いだけの練習」と化し形骸化。そこに現れたのがアメリカ人監督ルーツ。チームカラーを赤色に変え、練習方式も効率化を図り中身の濃いものとなったという。
ルーツは審判とのトラブルで4月でチームを去るが、後を受けた古葉竹識が意思を継ぎついに球団創立後初優勝を果たした。
この後広島は一気に強豪球団に成り上がり、91年までというスパンで見てもBクラスは2度だけ。古葉は西本や星野と双璧をなす鉄拳制裁型監督で、猛練習のイメージはこれによって完全に定着した。

川上→長嶋への監督交代により足止めの形となった巨人だが、長嶋監督2年目の76年からは本領発揮。しかし川上監督時代のように日本一とはいかずに苦しんでいると、その間隙を付いたのが伏兵2号・ヤクルトスワローズであった。
その監督をしていたのは中日・与那嶺と同じく元巨人の広岡達郎。特に広岡は巨人を屈辱的な形で退団する羽目となっていたのでその怒りは凄まじいものがあった。
若松勉・大杉勝男・松岡弘らを擁して2位・巨人を振り切ると、その勢いで長嶋巨人ですら倒せなかった阪急を打ち破り日本一に。
しかし翌年低迷しシーズン途中で広岡はチームを離れる。こちらは広島のような全盛期を築くことが出来ず、85年には選手会脱退事件もあり求心力を失いつつあった。

巨人は一時期の勢いを失ったもののまだ強豪の座は安泰であり、対抗馬は広島、中日は好不調の差が激しく…というのがこの時期のセリーグ。
そんな中以前安定期にあった阪神はというと、その内情は安定していたかに見えてゴタゴタと激しく動いていたものだが、それが本格化。75年オフにはエース・江夏を南海にトレード、78年には田淵を西武にトレードとスターの追い出しが始まり、監督交代は相変わらず3年持たずの繰り返し。
転じてBクラスが多くなっていたのだが、85年に盛り返す。吉田義男監督(2期目)の「チャレンジャー精神」という言葉通りひたむきに戦い通しリーグ優勝・日本一に。言わずもなが真弓明信・バース・掛布雅之・岡田彰布ら強力打線が大爆発しての栄光である。



V9が途絶えても、対岸のパリーグでは阪急の天下が続く。
監督は西本から上田利治に代わったが、上田2年目の75年からリーグ新記録の4連覇(西武に破られるまで記録に残る)。日本一にも3度輝き絶頂期を迎えつつあったが、4連覇目の日本シリーズ最終戦で上田は1時間19分の抗議を行い、その責任を取る形で辞任する事に。
この辞任が西武に取って代わられる一因となってしまい、その後阪急の優勝は1度だけだった。

手塩にかけて作り上げた阪急を上田に譲る形となった西本は、74年から近鉄の監督に就任。ここでも鉄拳も辞さずの姿勢で選手達を鍛え上げる方式は変わらず、6年掛けて近鉄を念願の初優勝に導き再び名を上げる。
79年・80年と2連覇を果たすが81年に最下位に落ちると西本は勇退。後任は別府星野組の子分的存在だった関口清治だが、「厳しかった西本さんの後だから、ある程度は選手任せにしようと緩めたのが拙かった」という本人の談から、上手くいかなかったのだろう。結局その後チーム力は停滞し、仰木彬の登場を待つことになる…

巨人のV9終了年が区切り良いスタートとなった新球団・日本ハム。球団社長の三原は娘婿である中西太を監督に据え育てようとするも、指導者としての資質は最後まで身に付かず2年連続最下位で中西は解任。中西はその後阪神で監督を務めているが、3位(81年)だったにも拘らずあっさり解任されている点からも評判の悪さが伺えて物悲しい。
後任は大沢啓二。三原と何の繋がりも無く就任要請に本人も驚いていた様子だったが引き受け、その間に全選手の9割にも及ぶ入れ替えが行われる。特に「野蛮な集団」と化していた東映末期の主力である張本勲・大下剛史・大杉勝男らでも果敢にトレード要因としてまで体質の転換を図った。
その成果がようやく身を結んだのが大沢6年目の81年で、優勝請負人・江夏のほか木田勇・間柴茂有投手陣の活躍が目立ちリーグ優勝、翌年もプレーオフで敗れたが勝率は1位だった。

西鉄が球団経営から退いた後、ライオンズ球団は太平洋クラブ→クラウンライター転々とし、78年オフには西武の下へ。これに伴い九州から首都圏へと移転し、九州の根強いファンを落胆させた。
クラウン時代から続けて監督の座に就いていた根本陸夫。西武オーナー・堤義明を説得し「チームの全ての事は君に任せる」の発言と西武鉄道のバックボーンを背にチーム基盤を整えていった。阪神とのトレードで得た田淵を主砲とし、切り込み隊長の石毛宏典、ドラフト外入団の松沼兄弟(博久・雅之)、西鉄時代からの主力東尾修、リリーフエース森繁和という具合で、戦力を整えるとすかさず「勝てる監督」広岡にバトンタッチ。自身は管理部長として手腕を発揮した。
82年の優勝以降も手を緩めず秋山幸二・清原和博・辻発彦・伊東勤・工藤公康・渡辺久信らをドラフトで掻き集め見事に一時代を築くのであった。

逆に南海完全に低迷。野村を失ってからというもの、あの弱かった近鉄をも上回る20年連続Bクラス(ダイエー時代を含む)という不名誉を作り上げてしまうという栄枯盛衰ぶり。
野村の後任である広瀬叔功監督野村カラーの一掃を目指したのも転落に拍車をかけた。その徹底ぶりはユニフォームにおいての鶴岡監督時代の肩・袖の太ラインの復活にも表れるほどで、頼みの綱の主砲・門田が故障とあってはどうしようもなかった。後任には野村の理解者であるブレイザーが就任、その後は穴吹義雄が務めるも5位6位のオンパレードで、この時点で南海の運命は決していたといえる。

74年に優勝を果たしたものの、仙台本拠地時代は通称「ジプシーロッテ」(73年から5年間)の通り不安定なロッテ。プレーオフには77年・80年・81年に出場したようにまあまあ強さはあったものの決め手に欠く。
84年には稲尾和久監督が就任。これは西武の埼玉移転もあり、球団を失った九州にロッテが移転するという条件付という契約だったが案は頓挫し稲尾は好成績(2位2回)にも拘らず3年で辞任。同時に稲尾と仲の良かった三冠王・落合博満まで放出したことがケチの付き始めであった…



(続く)

勢力の変遷を語る  二リーグ分立〜ドラフト制度導入

先日作成したこれを下に語っていきます




読売新聞社・正力松太郎の働きかけにより、それまで1リーグだった日本プロ野球が分裂することとなった。既存球団(巨人・タイガース・中日・大陽ロビンス・阪急・南海・大映スターズ・東急フライヤーズ)に、西日本パイレーツ・広島・大洋・国鉄スワローズ・近鉄・西鉄・毎日オリオンズが加わってセリーグ8・パリーグ7の15球団で、1950年のペナントを迎えた。



西日本パイレーツは、西鉄クリッパーズの球界への再参入(戦前に一時入っていたがすぐに撤退)を嫌った読売によって祭り上げられた球団、といって差し支えないだろうか。当初は西鉄と共同して球団を持つ予定だったが、西日本新聞が読売新聞に依存していたこともあり、両者別れて球団を持つ事となった。これによって九州に2つもの球団が生まれたのだが、2球団が並び立てるほどの基盤は存在しなかった。
読売繋がりという事もあり選手は容易に揃えられたものの、それにより人件費が高騰しシーズン中には早くも給料支払いの遅延が始まったほどであった。そんな状況を見ていた読売により「解散」措置を取られそうになるのだが、これに反発し西鉄と合併、のちにパリーグで黄金時代を作り上げる西鉄ライオンズが誕生した。

この時明らかになった読売の思想は「6球団で1リーグ」というものだった。よってセの球団はもう一つ潰れる可能性が出てきたのだが、その候補は財政難・弱小という負の要素を併せ持った市民球団・広島カープで、大洋ホエールズとの合併を画策していた。そこで52年のシーズンは「勝率3割未満の球団は身を引いてもらう」という案を出し、一方「存続の危機」となった広島は樽募金を行うなどして何とか存続を図った。
そして52年のシーズンは辛うじて3割ラインを上回った広島に対し、あろうことか50年の優勝チームである松竹ロビンス勝率.288を叩き出して最下位に。結局公約通り大洋と合併という措置を取られた松竹、53〜54年の大洋は「大洋松竹ロビンス」となっていたものの、熱意を失った松竹が球界を退き55年から再び大洋ホエールズとなった。

松竹脱退以降大洋は毎年のように最下位ロードを爆走。一方何とか合併を免れた広島と、設立当時プロ経験者がただ一人だけという国鉄は、エースである長谷川良平(広島)・金田正一(国鉄)の奮闘もあり54年以降はともに最下位を免れていた。

そんな弱小球団を尻目に球界の盟主・巨人は絶好調。水原茂監督の下「第二期黄金時代」(第一期は戦前)、他チームが戦力を整えるのに四苦八苦している時期という事もあり59年までの10シーズンで優勝は何と8回。特に51〜53年は3年連続日本一に輝くほどであったが、主要メンバー(別所毅彦・与那嶺要・川上哲治ら)の衰えもあり56年以降は日本一になることが出来ず、60年に「三原マジック」で躍進を果たした大洋に覇権の座を奪われると、水原時代はこれで終了した。

戦前は巨人と双璧をなす存在だった大阪タイガース。戦後まもなくの低迷期から立ち直り安定した強さを見せ付けるのだが、藤村(富美男)排斥事件があったりで巨人から覇権を奪うことは出来ず。
中日(名古屋)ドラゴンズも阪神同様安定期で54年には大エース・杉下茂の活躍もありリーグ分立以降唯一の日本一を飾るのだが、巨人の牙城を崩すには至らなかった。

盟主・巨人と別リーグとなった事により一歩置いて行かれた存在となってしまったパリーグ。安定した強さを誇っていた南海ホークスでさえ経営面では暗い影が落ちていたのだから推して知るべしだ。

スタートとなった50年は、大阪から別当薫・土井垣武ら多数主力が移籍した毎日オリオンズが制覇し日本一に。しかしその後は別所引き抜き事件の後遺症から立ち直った南海ホークスの時代を迎える事に。
鶴岡(山本)一人監督の下「100万ドルの内野陣」と形容された程の守備力と、戦前から培われてきた機動力をベースにリーグ内では一歩抜けた力を発揮、その安定度は3位以下は皆無という順位を見てば一目瞭然である。しかしそれでも日本シリーズでは大戦力の巨人相手に苦渋を舐めさせられる事ばかりで、そうこうしているうちにリーグ内でも脅かす勢力が誕生してしまう。
南海とは打って変わって、攻撃型野球を完成させた西鉄ライオンズがそれである。よく言われる「流線型打線」だけでなく、「守備は攻撃である」という三原脩監督の思想を下にして作られた内野守備も攻撃的で強力だった。これもファースト・河野昭修の卓越した捕球能力があってこそ出来る芸当だったのだろう。

54年に西鉄が優勝すると、慌てた南海も攻撃野球に切り替える。これが「400フィート打線」の始まりであり、55年は西鉄と勝率7割前後の激しい争いを続け、振り切って優勝を果たす。しかしまたも巨人に敗れ日本一を逃す。
その後は稲尾和久の入団で攻守ともに安定した西鉄が3連覇し、日本シリーズでも3年続けて巨人を打ち破る。いわゆる「野武士集団」の最盛期である。負けじと南海も杉浦忠の獲得に成功して59年には優勝・日本一。この南海・西鉄の鍔迫り合いが50年代のパリーグの見所であったが、その後西鉄のチーム力は停滞。

一方その他のチームに目を移すと、10年間で最下位6度という弱さを誇る近鉄パールズ。野球界への加盟申請は早かったのに、肝心のチーム編成で後れを取った結果がこれであった。

スタート当初は7球団という奇数だったパリーグ。セと同様に1球団減らす案を設け、勝率.350をきったら解散という策をとったがそれを割るチームはなし。そのため急遽誕生したのが高橋ユニオンズであった。
設立1年目となった54年こそ6位だったがその後2年連続最下位。急造チームだけあって観客も呼ぶことが出来ず、トンボとの業務提携も1年で立ち消え、あっさりと3年で解散(形こそ大映との合併だが選手が散り散りになったのを考慮すれば適当な表現だろう)。

その高橋を「形だけ」取り込むこととなった大映スターズ(ユニオンズ)は、ちょうど高橋が加入した辺りから弱小球団へと転落。合併した翌年に自身も毎日と合併することになってしまい、大毎オリオンズが誕生した。

東急(東映)フライヤーズ・阪急ブレーブス最下位も無ければ、優勝争いに加わることも無いという中途半端ぶり。特に阪急は梶本隆夫・米田哲也という屈指の名投手を擁しながら、中々勝てないシーズンが続いていた。



そんなこんなで1960年代を迎える。
60年の優勝チームが、セは西鉄で黄金時代を築いた三原脩を監督に迎え一気に浮上した大洋、パは「ミサイル打線」でそれまで覇を争ってきた南海・西鉄をかわした西本幸雄監督率いる大毎という風に、新時代の幕開けを予感させるものではあった。

この60年で6年連続最下位という最暗黒時代から抜け出した大洋だが、Aクラスに定着するだけの基盤はまだ無く、62年・64年に2位につけるのがやっと。
逆にそれまで上位に居座っていた中日が、濃人渉監督と選手達(森徹が親玉といわれる)の確執・柳川事件もあり安定感を失い、64年には初の最下位も経験。

セにおける勢力の変遷はこれぐらいのもので、巨人・阪神2回ずつ優勝を分け合った後、巨人V9時代が幕開けすることになる。

一方パでは、南海の安定感は変わらず。2位以上キープは実に66年まで続き、パの最強球団の座を守り通す。その原動力は、4番キャッチャーという重責を果たす野村克也であった。
一方その座を再三脅かしてきた西鉄は監督である三原脩の大洋移籍で求心力を失い、63年に14ゲーム差を跳ね返しての「奇跡の優勝」の1度だけしか覇権を奪えず。

60年に優勝した大毎だが、この年西本幸雄トラブルで失うこととなってからチーム力は低迷。一気にBクラスの常連となったが、近鉄バファローが相も変わらず最下位の常連であり、その実力は61年に103敗を喫する程であったため最下位にはならず済んでいた。

50年代はいい所がまったく無かった東映だが、61年に巨人を辞した水原茂を監督に迎えると俄然勢いづく。張本勲「暴れん坊」土橋正幸・尾崎行雄ら投手陣がかみ合い62年に優勝・日本一に輝き、以降はAクラスの常連となった。



(続く)

重役に招き権限を与えよ 〜有益なOBを大事にせよ

元プロ野球選手が騒動を起こしてしまうケースが見受けられる。



愛甲猛(ロッテ→中日)が再三にわたり失踪未遂を起こしたり、
小川博(ロッテ)が強盗殺人で刑務所入りしたり、
今オフは野村貴仁(オリックス→巨人→アメリカ→日ハム)が、
覚せい剤保持の容疑で逮捕されたりしている。




選手の引退後は、
指導者の道を歩むか野球解説者になるか、
あるいはフロント入りするかだと思われるが、
それが出来ない選手は一般人と同じく生活する事となる。

55歳以上になると貰える年金制度(10年以上在籍で月額10万程度支給)が、
財源不足で2012年に廃止になるというのも不安材料。
そうでなくても球団側は赤字運営に苦しんでいるので
アメリカみたいに選手会が一括管理するというシステムにしてはどうか。
(現在はNPB・選手会が双方管理)



まあここでは年金制度の是非は語らないが、
新人への契約金を排することとなったら、
将来の生活保護という点は重要になってくるだろう。





現在の日本プロ野球の監督を見てみると、
実に12球団中、4人が外国人の監督である。
日本人の人材が枯渇してしまっているのではないか、と疑いたくなる。
ちなみに過去の外国人監督は、
広島初優勝の立役者ジョー・ルーツと、
阪神・南海で歴任したドン・ブレイザー。
それに1年と務めなかったオリックスのレオン・リーぐらいか。
体調面の都合で指揮をとることなく退団したレオ・ドローチャー(太平洋)を含めても、来シーズンと同数である。



そんな内の一人であるロッテ・バレンタイン監督自身も、
「日本人の監督が育っていない現実だからアメリカ人の監督が増える」と危惧しており、
これに威勢良く反発できる者がほとんど居ないのも物悲しい。
同監督の裏金発言についてはボロクソに言っていたけどな




それはそうだ。
「選手を育てる」という精神は体外持っているものだが、それすらない球団もあるけど(いや別に巨人やオリックスとは言ってない)
「監督を育てる」という精神が果たしてフロントにどれだけあるか。
バレンタインが日本球界に問いかけているのはこれなのではないか。

監督の手本として中日・落合博満の名を挙げた僕であるが、
彼とてフロントに育てられた訳でもなく、
外野という立場で自分の監督としての思想を磨き、
ベストタイミングで中日フロントが招聘したというだけなのだから。
逆に落合が結果を出せなかったら非難が轟々と湧き上がり、
前任の山田久志のように2年ぐらいで解任されるのは容易に想像できた。




バレンタインが03年まで監督業をこなしていたアメリカ大リーグ。
強い球団は大抵GM(ゼネラルマネージャー)といったフロントの責任者がしっかりしており、
また選手源も広いから自分の思うように腕を振るうことができるし、
GMによって整備された環境で指揮をふるう監督の楽しそうな姿も浮かんでくる。



そんな方式の下チーム強化されつつあるのが日本ハム。
監督であるヒルマンの采配に焦点が行きがちだが、
彼を支える高田繁GMを始めとしたフロント陣の頑張りも、躍進の立役者である。
「戦力を揃えるのはフロントの仕事、現場を指揮するのは監督の仕事」という思想がきちんと機能し、
一途に栄光へと向かっていった最高の例が今年出来上がった。


バレンタインは第一次政権の際、
名監督である広岡達郎GM散々対立して辞任に追い込まれたのは有名な話であるが、
原因は広岡の度を越えた現場介入が大きなものだっただろう。
広岡も最初はアメリカのようなGMを夢見ていたのだろうが、
実際はアメリカと比べて「思い通りに選手を揃える」事が難しい日本だから、
それにイライラしてつい介入してしまった、という図式が思い浮かぶ。





過去にこんな事を書き、
そこで「現在フロント入りしている野球人は長嶋・星野・高田」と述べたのだが、
単なる「球団職員」としてなら彼ら以外にいくらでもいるし、
大した実績が無くても野球の技術面を学習していけばスカウトぐらいにはなれるだろう。


だがフロント内にいくら野球人の職員が多くても、
フロントトップの匙加減がチームに与える影響が大きいのは言わずもながだろう。

いくら職員が良いファンサービスを考え、スカウトが良い選手を発掘しても、
オーナー・球団社長に熱意が無かったらそれが採用される確率は低い。
いやそもそも、スカウト費用すらケチる可能性だってある。


だから横浜が名門大学の顧問を引っ張ってきたり、
楽天が山下大輔(元横浜監督)を編成本部長に置いたりしても、
チーム強化のための手腕を発揮しづらいのだ。
どうしてもオーナーら上司の顔を見ながら、という姿勢になってしまうのは否めない。



「監督はオーナー・球団社長に育てられる」とは、
かの有名な三原脩氏の言葉であるが、
この言葉を借りて今のフロントと監督の関係を表すと、



「野球経験の無いフロントが、現場へあれこれと口を出す(しかし金は出さない)」
「名監督により、育てる側なはずのフロントが逆に育てられる」




という歪な関係となっている事が解る。
後者は数年来のヤクルトフロントを見ても解るように悪いことではないが、
その方式でどこの球団も巧くいくとは限らないのだ。




また三原氏はこうも言っていた。
「オーナーが野球出身の経営者を使っていくという風にならなければ、球団はよくならない」


球団を強くしたいという熱意を持つオーナーは、
えてしてその思いが空回りするという事が多い。(ナベツネとか)

それならば大人物をフロントに招いて、
球団編成を彼に任せる、というような組織を作れば、
少なくとも近年の巨人のような失敗は無くなる。
極論を言えば、名実ともに球団社長(代表)を任せられるような人物である。
オーナーは大役を任せるに値するOBを探し出し、
熱意があるという事を見せて貰いたい。


レンタル制度は取り入れるべきか 〜戦力均衡策の是非

前回は何を言いたいのか解らないぐらい、
締りのない文章になってしまった印象なのだが、
外野から考えることとしては、もし仮に木佐貫野間口広島・楽天に在籍してたら、
先発の柱へと成長してただろうな…という事である。

一人一人の選手を底上げすれば新戦力は少なくて済むのに、
それをしないで選手を獲ってばかり。
「少数より大人数のほうが安心する」のがフロントの性なのだろうが、
数を持ちすぎる事により必然的に飼い殺しが生まれてしまう。
今季の巨人投手陣のように…



チームにとっては勝てばそれでいいかもしれないが、
選手を野球界の資源として見るならば、これは大損害といえる。
有力なアマチュア選手が、
プロ側の都合でどんどん萎んでいくとしたら、
それこそアマチュアは誰もプロに入りたがらなくなるだろう。



知恵の無い巨人こそ下位に低迷しているが、
ここ2年セリーグは中日・阪神の間でしか優勝争いしていないという点も、
戦力格差が著しいのでは、と思わされる事象である。
知恵戦力を駆使できたら優勝争いに絡むことができるが、
大抵のチームはどちらかの片翼飛行で低迷するというケースである。

今季でいうなら、
フロント・首脳陣の知恵遅れで低迷した巨人のほか、
大補強を敢行したが新体制が色を出せなかったヤクルト、
開幕前は黒田1人という惨状の投手陣だった広島、
逆指名ばっかする割に全然戦力が整わない横浜、
といった顔ぶれで、
広島は戦力不足が原因だったが、
後の3球団はいずれも知恵の不足ともとれる低迷だった。




まあそんな事はここではどうでもいい。
「戦力均衡」を訴えるのが今回のコンセプトであるが、
無闇に弱小球団の救済はして欲しくはないし、
仮にそんな政策を採ったとしたら、その策に甘える球団が出てくるだろう。


なので主に「飼い殺されている」選手の立場で話を進める。



巨人のように、
空いたポジションをすかさず他球団選手から獲得し、
強固にその穴を埋めるという手法をとり続けるとどうなるか。

半レギュラーの立場にある選手の闘争心を失わせるし、
将来のレギュラーを目指さんと奮闘するファーム選手の気持ちも萎えてしまうだろう。

それならばドラフトに参加せず、
一生そんな補強策を続けていてください
とお願いしたくもなるが、
それが中々難しい(つうか無理)から苦言の一つも言いたくなるのである。
これこそが巨人の最大の矛盾点なのかもしれない。



この「実力はあっても出番が無い」選手のために、
レンタル制度の導入を前向きに検討してはどうだろうか。
もちろん国内限定という取り決めを付けて。

先日星野仙一・阪神シニアディレクターがアメリカと一対になったレンタル制度案を打ち出していたが、
そんな事をしたら間違いなく有力・有望選手のメジャー行きに拍車がかかってしまう。
いくらでも豊富な資金を繰り出してくるのがアメリカというお国柄なのは、
今オフの松坂の件でも解るだろう。
この案では一流選手どころか、
一流になりかけの選手にまで食指が伸びるかもしれない。
そうなったら日本プロ野球は完全にアメリカの植民地となる訳で。
メジャーへの憧れは誰にも止められるものでもないが、
それに積極的に加担しようとするのもいかがなものか。



だから国内限定、という取り決めを行うのである。

例えば今季だったら、
ただでさえ先発が不足している所に、
土肥義弘故障というアクシデントが発生した横浜。
さあ大変、どうしよう…

そこで他球団からレンタルしようと考える。
若手先発が豊富な巨人に目を付け、
それこそ木佐貫野間口といった埋もれている(いや実際巨人が埋めているのだが)人材が欲しいと巨人球団に申し込む。
巨人側は彼らを特に必要としてないこともあり承諾し、交渉成立。
そして横浜での登板という流れである。


レンタル申込期間は、
トレードの打ち切りと一緒で6月下旬まで。
レンタル選手の在籍期間はそのシーズン終了までで、
シーズンが終了すれば元居たチームへと帰る。

この時点でレンタルされた選手が、
レンタルチームでどれぐらいの成績を残したかどうかは不明だが、
仮に活躍すれば、来年はうちのチームでも使うぞという気運が高まるはずである。

この時レンタルした選手をそのまま帰らせないようにしたい球団も出てくるだろう。
そしてトラブルが起こりうる事は容易に想像できるが、
それは出来ないという協約を作るのが無難である。
あくまで選手の活躍の場を増やすためのレンタルであり、
戦力の取り合いという構図は作らない。



もう一つの懸案がレンタル資金ということになるが、
単純に選手年俸の半額〜2/3ぐらいで良いのではないか。
あまり高くするとやはりここでも硬直化するであろうから。FAみたいに…





と僕ならではの理想を掲げてみたが、
仮に実行に移したとして、資金に関する事項や、
レンタル後の処置とかで足元を見る球団がありそうで怖い。
やはり12球団が集まって、じっくり話し合って決めて欲しい。

「飼い殺し」と駒不足 〜戦力均衡策の是非

何となく、2リーグ分立以降の各球団の順位を懐かしんでいると、
そこで必ず球団の黄金時代とか低迷期とかを考えさせられる事となる。




昔はドラフト制度というものが無く、
新人獲得は自由競争だったから、戦力格差というものが生まれ易かった。

セリーグは巨人を中心に中日・阪神が主に優勝争いに絡み、
それはドラフト制の導入(1965年)からもしばらく続いた。
巨人V9が途絶えると同時に、
ようやくドラフトによる戦力の均衡が行き届いたのか、
どのチームも優勝争いに加わるようになってきた。

パリーグも、1950年から南海が、
66年まで1度も3位以下に落ちた事の無いぐらい安定感を見せ付ければ、
一方近鉄は万年テールエンドが続き、
3連覇を果たした西鉄以外はたまに東映・大毎が優勝に絡む位。
67年以降南海が不安定になって、変わって阪急が強豪の仲間入り。
巨人と比べ南海の転落が早かったのはやはり資本面で巨人>南海だからだろうか。
その後阪急の栄華の合間にロッテ・近鉄・日ハムが優勝を果たすのだが、
戦力構図を覆すまでに至らず。この構図は西武によって覆さたが、
再びばらつくようになって来た現在。



「どのチームが優勝するのか解らない」リーグの方が面白いのは、
巨人V9終了後に全体で観客動員が大幅増を果たしたことからも伺えるのだが、
こうした戦力均衡策に度々反発を起こしたのが、
紛れも無く巨人である。



93年の逆指名ドラフト制度・FA制度は、
当時の巨人オーナー・渡辺恒雄が半ば強引に認めさせたものであり、
有力な新人他球団の主戦力のダブルゲットを図り、
再び黄金時代を築かんとしたものだった。


これ以降確かに精力的な制度行使を敢行した巨人だが、
所詮やっている事はツギハギ補強だったから、
常勝どころか連覇すら出来ず仕舞。

そしてツギハギの弊害が出始めているのが、
昨季からの2年連続Bクラスという結果なのだが、
お偉いさん達はそれに気付いていないのが何とも悲しい…




ともかく、
「何のビジョンも無く戦力増強を図った」ことが近年の低迷の原因なのに、
それでも尚即戦力を求めようとする巨人フロント。
ほどほど、という事が無いのである。

例えこの掻き集めで戦力は上がっても、
首脳陣・フロントのレベル全く上がらないのだから、
この度の低迷は当然といえる。





それで例え巨人のBクラスが10年ぐらい続いたとしても、
単なる低迷期としてしか捉えられないだろう。
問題は「戦力を有り余らせながら」低迷するという点である。


戦力を補強した。優勝間違いなしだ。
でも勝てない。どうして。
やっぱり戦力が足りない。だからさらに補強する。

この繰り返しで、自チームだけでなく他チームの土台をも揺るがしてきた巨人。

今季開幕前の投手陣を思い返して欲しい。
上原・木佐貫・久保・高橋尚・工藤・パウエル・グローバー・内海・野間口・西村・林・豊田・野口・福田・栂野・前田・酒井・真田…

閉塞感しか感じられない、とは以前にも述べたが、
戦力が有り余っているというのも事実であり、
このメンバーで「投手弱すぎ」というにはにわかに信じられなかった。
これを聞いて広島・楽天といった戦力を揃えるのに四苦八苦している下位チームは何を思うだろうか。


ピッチャーだけで約20人も一軍クラスが揃っているから、
それらの中には当然不調などで遅れる者も出てくる。
今季で言うなら、木佐貫野口辺りだろう。

確かに2人は今季不調であり、
僅かに与えられた登板試合でも結果を残せなかった。
しかし戦力が豊富であり首脳陣も「優勝しなければ」という精神に刈られており、
見切りが早すぎるのも事実である。
それでいて「余剰戦力」として解雇せず、
支配下には置いておくという矛盾ぶりを見せている。
こんな精神だからこそ「飼い殺し」にされる選手が多数生まれるのである。




一方上の方でチラリと名を挙げた、
広島楽天はどうだったか。

ともに前年は最下位で、
開幕前は慢性的な投手力の不足故今季も最下位の有力候補とされた両チーム。


それが広島は最下位を脱出し、
「戦力揃いの」巨人とは僅か1.5ゲーム差。

楽天は最下位脱出こそならなかったが、
大型補強で注目されたオリックスに4.5ゲーム差と脅かしたのである。



戦力が不足しているからこそ、首脳陣は知恵を振り絞れる。
今季から監督に就任したブラウン・野村克也両氏にとっては、
逆にやり甲斐があると感じたのだろう。

戦力が無く若手の成長もままならないながらも、
佐々岡が4年ぶりに規定投球回に達したり、
小倉が文句の無いリリーフの柱と成り得たりした事は、
「やりくり上手」の妙を存分に発揮した起用だった。




「貧乏」「貧困」の違い、とも言えるのだろうが、
今季の巨人は、佐々岡・小倉に見られるようなやりくりの巧さが全く見られなかった。
しかも広島・楽天と違い若手に投手が有り余っているにも拘らず、である。


辛うじて内海の躍進に手を貸したというぐらいで、
野間口にしろ西村にしろ真田・姜にしろ、
適当な所にはめ込んで「状態が良いから何となく使おう」というぐらいにしか感じなかった。
それで打たれようものなら「使った私が悪い」と、
突き落とすような言い方をされるのだから、育つものも育たない。
やはり巨人は選手のレベルは高くても、首脳陣・フロントのレベルは低いのだろう。

期待の新星が進んで入団したくなるような組織を 〜FA制度の実態

これまでダラダラと書き綴ってきた感があるので、
結局のところFAをどうすればいいのか纏めてみる。




選手会側は期間短縮を求め続けているが、
「ドラフト選手の入団拒否を防ぐ」という建て前もあってのことだから、
それならば普通に球団在籍年数を期間とした方が良いだろう。

入団してから無条件で10年経過したら権利取得、という風にすれば、
高卒選手は28歳で権利が取得できる。
そうなると有力高校生達も迂回ルート(大学・社会人)に走らず、
卒業時点で入団しようという欲がもっと強くなるはずである。


まあそれには、
プロ側もしっかりと高卒選手を育成して一軍に送り出すという配慮が必要になるのだが、
それについては以前にも語ったとおり、
競争意識を煽り立てるような組織が作られれば問題はない。



何せ近年は、
大卒・社会人出身の即戦力選手でさえ、
純粋に即戦力となれるとは限らないのである。

これも各球団が即戦力選手ばかりをかき集め、
高卒選手を抑え込んでいるから起こりうる事である。
競争に敗れた即戦力選手は2〜3年のファーム期間を経て、
再び競争の舞台に立つ訳であるが、
それなら高卒と何ら変わりないのではないか。
要はファームの平均年齢が上がり、全体的に遅咲きとなっている。



だから即戦力と将来性のバランスがとれるよう、
目減りしている高校生の新入団選手の増加に勤めてほしい。
選手の権利云々よりも、これが主たる思いである。


権利を手にした選手は、
人気球団でもメジャーでも何処にでも行けばいい。
だけど、権利行使により抜けた選手の穴をすかさず埋められる事ができるか。
こちら方面にメスを入れてもらいたい。

10年選手制度の功罪 〜FA制度の実態

1974年以前、
選手の権利として「10年選手制度」なるものがあった。



1947年に導入され、
10年以上球団に在籍した選手に対し、
「移籍の自由」「ボーナス授与」「引退試合主催」といった権利を与えるとしたもの。


移籍とボーナスは当時は二者択一であり、
また選手が受ける権利もA級B級に別れており、
B級の選手は移籍する事が出来ない。


ちなみにA級選手とは、
同一球団に10年在籍した選手のことであり、
B級は、複数球団の在籍年数を併せて10年に達した選手である。


再取得に要するのは3年。

当時はこの再取得は、1度目にA級として権利を受けていても、
再取得時はB級の権利しか受けられないとされていた。

しかし1958年の田宮謙次郎選手を巡る騒動で、
一部仕様が変更された。

具体的には、当時のコミッショナーが、
「A級権利でボーナスを得て残留すればその選手はA級のままであり、移籍自由の権利は残る」と誤って声明発表してしまい、
この声明が正式なものとなってしまい、
田宮が在籍していた大阪タイガースのフロントはこれを聞き、
「ボーナス与えたとしてもその後移籍される可能性」を考え、
田宮との契約を結ばず、権利行使→大毎へ移籍という形になった事件である。

これ以降、このコミッショナーの見解通り、
A級権利でボーナスを得ても移籍権利は残る事になった。






この権利は1975年で撤廃されたのだが、
ドラフト制度の普及で思うような選手補強が出来なくなった有力球団が、
主力選手を自チームに縛ろうと考えての事だと思う。


それ故「縛り料」は高く貰わなければならないという、
選手側の考えとが捻りあい、
それが現在も続いているのだろう。




さて、この制度と現在のFA制度を比べてみよう。



FA制度は、その選手が一軍選手登録されない限り、
取得までに必要な年数を縮めることが出来ない。
最短9年というルールだが、
実際に最短で獲得した選手は皆無なのではないか。
平均すると11年以上にも昇るという。

10年制度はその点では万能である。
入団から10年が経過すれば無条件に権利を手にする事が出来るからだ。
数字だけなら一見FA制度の方が美味しく見えるが、
実質的にはこちらの方が誰にでも貰えるチャンスが生まれる。



実際に権利行使して移籍した人数を比べてみると、
FA制度下では45人(大リーグ移籍も含む)。
それに対し、10年制度はわずか11人である。


これでは「移籍の活性化」になってないじゃないか、
当時の選手は皆ボーナスを求めたのだろう、という意見が生まれそうだが、
その頃の野球界はリーグ編成自体が不安定だった。
1950年の2リーグ分割をはじめ球団の合併・消滅を繰り返し、
ようやく両リーグ6球団ずつという今の原型がとられたのが1958年だった。

コロコロと状況が変わるから、
当然選手が置かれる立場も変遷していく。
引き抜きやトレード移籍が活発に行われており、
それにより10年制度を行使するいとまが無かった、
という時代背景であろう。



この「権利行使以外での移籍」では間違いなく活性化するはずである。
例えニ軍選手であっても10年間在籍すれば権利は手に入るから、
当然そんな選手は10年在籍する前に淘汰される。

以前に名を挙げた、
広島・鈴衛のような例はまず生まれない。
逆に遅咲きの例が生まれないのでは、という危惧もあるが、
野球界全体が見切りが早くなるのならば、
反対に抜擢のスピードも速まるはずである。

一方主力でも二軍選手でもない「そこそこ」の一軍半の選手であるが、
球団に必要な戦力ではない、
権利を与えるのに相応しくない、などと球団が判断すれば、
二軍選手同様に容赦なく放出されるであろう。
しかし実力があれば他球団の眼に叶い再雇用されるだろうし、
新天地で見返すチャンスは今以上に広がるのではないか。







3回に渡って書いてきてややこしくなって来たので、
次回でどのように変えていけばいいだろうか纏めてみる。

選手会案だと解決するのか 〜FA制度の実態

FA制度の改革という話題になると、
必ずといっていいほど叫ばれるのが、
「FA権取得に必要な期間の短縮」「補償金制度の撤廃」だろう。





日本プロ野球選手会の公式ページを参考にさせて頂くとともに(感謝)、
そこに載せてある意見について色々と考える。
つうか「当サイトへリンクを張っていただく場合は、リンクを張っていただくページのアドレスをご通知ください(基本的にリンクフリーです)」←これリンクフリーって言わない



取得までの期限を短縮せよ、
これは野球ファンならば大抵一度は聞いたことがある意見であろう。

FA権取得には最短で9年(逆指名選手は10年)を要する。
しかもその期間は1軍登録日数を下に計算される(1年=145日)から、
故障があったりローテーションの調整とかで抹消されると、
必然的に取得まで遠ざかる。

よって最短9年とはいっても、
大概の選手は10年以上かかるはずである。



だから若いうちに移籍の自由が叶えられるよう、
FA期間の短縮が求められているのだろう。
国内移籍と海外移籍は別々に、なんて提案もあったが、
既にFA権はアメリカ側に目を付けられており、
アメリカも盛んに期間短縮を求めて来ている。
よって切り離すのは至難の業といえる。
(具体的な要望は選手会ので7年、アメリカが6年)

「海外移籍は野球界にとって良いこと」という基本理念を持つ選手会だから、
仮に選手会の要望が通ったとしたら、
このアメリカの要求をかわす事は出来るのだろうか、
なんて恐ろしい妄想を抱いたりしてしまうのだが。

僕自身も海外移籍は良いことだと思うが、
現時点では「代わりが育つ」という思想を持っている球団が少数なので、
「抜けたらすかさず補強」の精神が無くならないうちはデメリットの方が多い、
そう考えさせられてしまう。



FAをドラフトとリンクさせる、という意見も多い。
つまりは期間を短縮し、
「頑張れば誰でも移籍の自由が手に入りますよ」と新人に呼びかけたうえで、
完全ウェーバー制のドラフトを実現させる。


それも一つの案であろうが、
↓のような意見を見ると、金銭欲の方が強いのではないかと思ってしまう。




(高い契約金について、の反論)
契約金の上限は1億円とされていますが、1億円で平均11年以上も選手を拘束することが許されるでしょうか?








(約3分間思考停止)






果たしてこれを権利が得られない一軍半の選手や、
中途でトレードされる中堅選手が聞いたらどう思うか…


外国人選手の移籍を引き合いに出しているが、
それは一定期間までに契約できないと自動的に自由契約扱いとなるルールや、
彼らの影で年俸アップせんと働くヒネた代理人、
それに近年の冒険しない外国人補強という問題の方が大きいのではないか。
外国人枠は必要だ、という選手会の意見もあるから、
外国人と一緒くたに語るのならばまず枠を無くせ、
と野暮な突っ込みを入れたくなるのは間違っているだろうか。



ただ市場原理が生まれる、という点には同意。




補償金制度についてだが、
やや緩和されたとはいえそれでも大部分の球団には重みとなる。

資金源に乏しい球団は、
FA移籍の被害者となることでその補償金を補強費としている所もあるらしいが、
それを承知の上で、これは排した方が良いと思う。

そうなると上記の球団は丸損であるが
その分は選手で埋めれば良いのではないか。
FAの補償を必ず人的とする。
育成に自身のある球団は移籍選手の代わりに、
プロテクトから漏れた若手選手を獲れればさしてマイナスにもならない。



選手会案はこれが抜けているのが惜しい。
多くの選手がFA宣言すれば確かにFA市場は拡大するが、
それでは資金不足の球団は第二グループの選手を掴まされる事となるから、
戦力差は埋まらないだろう。
逆にFA市場へ選手を送り出しても、これまでのように補償金が貰えないから、
そこそこの年俸(5〜6千万ぐらいだろうか)でも苦しく手を出さないと思う球団もあるかもしれない。


FA獲得により選手を一人獲られるとなれば、
球団は補強と育成の二つを天秤にかけ、
どちらが現在必要なのか考え、行動に移すことが出来る。
ましてや表で散々FA市場に入り込んだ挙句、「育成の巨人」といって片っ端から育成枠ドラフトで選手をかき集める、
という矛盾も無くなると思う。
いや育成は良い事だけど問題は彼らのモチベーションを保てるかどうかだから





次回は「昔を知っていただく」という名目で、
FA以前の選手の権利制度について語ってみる。

移籍活性化がちっとも進まない 〜FA制度の実態

この議題と関連付けた項目として、
「西武ダブルストッパーFAで一気に移籍」なんて、
誤報もいいところな文章を発信してしまった事に気付いたのが最近の事。(逝け)
誠に申し訳ない。
(正確には、ポスティングで大リーグ挑戦)






FA制度が出来上がったのが93年のこと。
資金力を振り翳して巨人に戦力を集めたい(そしてミスター・長嶋茂雄に栄光を)という渡辺恒雄の欲望が、選手の権利拡大を求める選手会(当時の会長は現阪神監督・岡田彰布)の思想と結びつき、
「リーグ再編も辞さず」という渡辺の強固な姿勢の下、野球機構が一気に腰砕けとなりこの年オフから実行された。

当然大した議論もなされないままであり、
思想が一致したといっても渡辺選手会が話し合った訳でもないから、
「移籍の活性化」という選手会の建て前ともいえる思想が反映されず仕舞で、
それが現在も続いている。
変化といえば、金銭保障の際の補償金が軽減(1.5倍→1.2倍)された事ぐらいだろうか。



この制度が実現した後、
選手の総年俸が物凄い勢いで上昇してそれが大赤字を招いたのは周知のとおり。
アメリカではFA権行使した選手は年俸大幅増となるが、
それは一部の球団であり、ぜいたく税という制度もあるから、
財源不足の球団は惜しげもなくそんな選手を放出し、
それを有力球団が獲得するという流れが浮かび上がる。
よって資金力不足の球団は、
アスレチックスのような「マネー・ボール」という思想を持って、
知恵を振り絞らない限り強豪の座に居られないという現実がある。



選手会もアメリカをモデルとしての要求だったと思うが、
「移籍の活性化」という目的は、
アメリカと違い3Aクラスにごまんと選手が居る、という環境ではないから、
現在のFA制度ではその目的を果たせるはずも無い。


それどころか今の選手が、
FA制度が「移籍の活性化」という理念で作られたという事実を理解しているのか。

FAが出来た初期の頃、
巨人の先発3本柱の一角・槙原寛己がFA宣言。
長嶋の「17本のバラ」で残留したというエピソードがあるが、
これ故年俸は一気に生え抜きトップとなった。
斎藤・桑田に比べ芳しくない成績だったので、
このアップには疑問が残る結果となってしまった。
まあ翌年完全試合達成などでアピールしたのが彼の凄い所でもあるのだが…



初期の中心選手でさえこれなのだから、当然近年の選手はもっと薄くなる。

近年で印象深いのが、現楽天・山崎武司の中日時代のケースである。
96年にホームラン王に輝いてからというもの、
不安定な成績を続けていた01年までであり、
この時の年俸は1.2億。
ホームラン狙いになると打率が落ちる典型的なスラッガーで、
01年は打率.238まで落ち込んだ。
守備・走塁の上積みはゼロ(それどころかマイナスなのでは…)だから、
大幅減は当たり前であった。

しかしこの年獲得したFA権を盾に、
球団が提示した額を保留するや、横浜への移籍を匂わす言動を繰り返した。
結果3年契約を勝ち取り、年俸はほぼ現状維持。
移籍する意思が本当にあったかどうかは不明だが、金銭欲が露骨になったのは確かだ。

そして牙を失った山崎は02年大不振で、
3年契約にも拘らず1年で放出されたという大恥をかいたのだが、
これでようやく意識が変わったのか、3球団目の楽天では主力打者に成り上がった。




こうした「宣言残留」が年俸交渉の奥義となり、
それに合わせる様に他選手の年俸相場も上がっていく。


当然、パリーグはこういったFA選手を次々と見送るハメとなったのだが、
それとて責められない。
「ベテランを放出し補償金が得られる方がマシ」と考える経営者だって居るほど、
毎年赤字が著しいのだから…




パの赤字が膨れ上がったのは恐らくこの93年が境であろう。
このFA制度の他、渡辺の1リーグ宣言でパのファンは白け、
長嶋の巨人監督復帰で巨人偏重に拍車がかかった。
ONが引退した後、ようやく野球人気がリーグ全体に行き渡りかけたのに、
これでは前時代に戻ってしまっただけではないか。



識者達は「今の選手は昔と違って働ける場を求めるから巨人に行きたがるとは限らない」と言っていたらしいが、
それがいかに浅はかな読みだったかは言わずもなが。


最近では移籍を希望する選手が居ても、
移籍先を見つけられず残留という現象が見られる。

04年オフのヤクルト・真中満が良い例で、
レギュラーを張れずに3年間を過ごしてきたこともあり、移籍前提でFA宣言した。
しかし半レギュラー的立場であるはずの彼の年俸は1億。
当然興味を示した球団でも、年俸を下げなければ獲ってくれるはずは無い。

実際新球団・楽天が食指を伸ばそうとしたが、
条件面で折り合わずに見送られたという。
そして結局残留である。

この行動でヤクルトフロントの怒りを買ったのか、
FA宣言したにも拘らず年俸25%カットという屈辱を受けた真中。
まあ自業自得といった所だが、
やはり保障というものを考えてか、思い切った行動を取れないのが近年の選手の性なのか。
これも年俸相場が崩れている故に起こることなはず。







と大まかに近年のFAを取り巻く実情を書いてみたが、
次回は選手会側の考えを下に語っていこう。

攻撃よりも防御だろ 〜監督の在り方

何があったんだと思いたくなったのが、
巨人の監督に復帰した原辰徳である。




前の時は辞め方が辞め方だっただけに、
低迷する巨人再建の切り札として注目を集めたのだが、
この時点で原は「何が何でも優勝しなければならない」と思い込んでいた節がある。


前回の監督時の優勝(2002年)で、
「適材適所に人材を配する監督」というイメージが付いていたのだが、
早速「使える投手が欲しい」とフロントに要望を出し、
ドラフトFA・外国人市場で大型補強を実現させた。

当然前回の辞めさせ方故、
原に対して弱腰になっているフロントが要望を聞き入れたから起こった事なのだが、
復帰とはいえ、就任1年目なのにチーム事情を完璧に解っているかのような要望を出した新生・原に不安を覚えずにはいられなかった。
読売系の解説者という、外野かどうか微妙な立場から2年間チームを見ていた原だが、
ただチーム防御率の悪さという成績だけに着目し、
高齢化・弱体化が進む野手のレギュラー陣や、
前任の堀内恒夫若手投手を育てようと悪戦苦闘していた姿は見ていなかったのだろうか。



話をフロント側に移すと、
低迷したチームを立て直すには長期的視野が必要なのだが、今季の巨人ヤクルト然り、
近年はどうしても近似的な補強に躍起になり、
「新監督にじっくり現場を託し、それをサポートする」という気概が見えて来ないのが残念である。
戦力を補強したから後は好きにやってくれ、但し結果を出せなかったら解雇だ。
こんなフロントの声が聞こえてきそうであり怖い。
これでは黄金時代など夢のまた夢。




さて今季の巨人でもう一つ不安だったのがコーチ陣。
前回の原辞任の際に総辞職したからだろうが、この度もご丁寧に総換えである。
しかも近藤昭仁西岡良洋といった人物の加入で、
原自身どこか精神・根性論といった古典的思想に汚されてはいなかったか。


オープン戦で打ち込まれた久保裕也に対して、
背面に蹴りを入れて「ケツをナデナデしただけ。」なんて発言した原しかり、
サヨナラの打球を追わなかった亀井義行に対して、
試合後ベンチで叱責の度を越えた暴力を犯しそうになった西岡しかり。
ヘッドコーチの近藤に至っては、
小関竜也がベースを踏み忘れた事件に対して、
「踏まなかった小関が悪い」という空気の読めない台詞を吐いた。


選手の技術が向上し、指導法も進化が求められるなか、
巨人は異様に退化しているという事を実感したこれらの事象。
自称盟主のプライドがそうさせているのだと思うが、
「巨人は勝たなければならない」という気持ちが完全に空回りしているのだから、
情熱は必ずしもプラス方向に向かないいい例である。

久保を蹴り飛ばすことが、
「次からは蹴られないように頑張れ」という意識を植え付けるという意図だとしたら、
それこそ選手とのコミュニケーションが全く取れていないのではないかと疑いたくもなり、
悲しい事である。
どうして「打たれたらまた蹴られる」という選手の不安を増幅させる可能性もある行為を採ってしまったのだろう。

後半戦負けが込んだときも、
「他人には解らないと思うけど俺は悔しいんだよ」
「アー、チックショー!
(この後壁を蹴り飛ばす)」

なんて感情を露にした原のコメントが発表されていたから、
指揮官に大事な「我慢」の思想が全く無い。




「選手を外圧から守る」立場であるはずの首脳陣が、
いつのまにか自分自身で選手に圧力を掛けてしまっている。
これではチームが不調に陥った際、
何処をどうしていいのか解らなくなるのも頷ける。


3年間で2度優勝している中日は、
一昨年も今年のペナントも不調な時期があったものの、
的確な配慮で沈み込みを最小限に留めて栄冠を勝ち取った。
やはり「攻撃」よりも「防御」が大事という事を、
「投手」「守備」の強化とともに落合は心得ていたのだろう。





原巨人の話はこれぐらいにして、
他の攻撃、とりわけ「口撃」に関しては人一倍なのが阪神・岡田彰布監督である。
といってもその内容は、殆どが的外れなのだが…



04年開幕前に、
「巨人は大した事無い。マークするのは中日」と言ったり、
「昨季は横浜戦に大幅勝ち越ししたけどどの試合も紙一重だった。今季は一層気を引き締めなければアカン」と言っているように、
一見ピンポイントにチームのための発言をしているのだが、肝心の結果が伴わない。



ここで阪神というチームを軽くプレーバックしてみると、
01年まで迷走を続けていたお荷物チームだったのだが、
星野仙一が監督に就任してからというもの、
大型補強を敢行しチームの意識改革が図られ、
03年に優勝して強豪チームに生まれ変わった。

そして04年の野手の主力を見ると、
星野監督時代に形成された遺産がそのまま受け継がれたのが一目瞭然なのだが、
この素材を岡田は上手く使いこなせず転落したという印象が強い。
大きな故障はキンケード片岡以外は無かったはずで、
しかも鳥谷・関本プラスアルファの人材が出てきたにも拘らずである。



打線が繋がらない試合が多くなると、
岡田はかなり打順を弄って対処しようとしたのだが、
その内容自体が到底理解できないものだった。

核弾頭である赤星9番に据えた試合もあった。
その試合は7番アリアス・8番投手だったのだが、
おかげでチャンスでアリアスが敬遠され、一層繋がらなくなった。

その赤星が不調(とはいっても2割6分ぐらいだったはずで前年とのギャップがそんなに気に入らなかったのだろうか)に陥れば、
彼を外して3番に立川(この年途中にロッテからトレード)を入れたりもしていた。
その度に今岡藤本の打順が動き、選手は色を失っていった。



「ホームランを打てる奴はどんどん打ったらええ」と就任直後に岡田は言っており、
確かに金本・今岡ら主力のホームランは増えたものの、
繋がりという面でかなり遅れをとってしまい、優勝争いに絡めなかった。
自身クリーンアップで85年の優勝メンバーだったから、
ホームラン攻勢の快感は忘れがたいものだったのだろう。
それが赤星の扱いのように防御のことを全く考えず突き進んでいく要因となるのだから、
手詰まりになるのは容易に想像できた。

投手陣も、前年の勝利の方程式である安藤・ウィリアムスに対し、
順番をその日その日によって入れ替えた継投も犯していた。
ウィリアムスなんかは左へのワンポイントで起用されることもしばしばだった。




この年で反省したのか、
昨年はオーダー・勝利の方程式を固定させて優勝をもぎ取ったのは評価できる。
しかし監督の手腕というよりも、
選手が120%の力を発揮したから優勝できたと思われたのは何とも皮肉である。

実際日本シリーズでは選手達の力を過信したのか、
ロッテに合わせるように予告先発制を採用してしまい惨敗。



そして今季なのだが、
ベテランばかりの野手陣・投げ過ぎの救援陣故とても優勝できるとは思えなかった。

そんな事を岡田自身も考えていたのではないか、と思わされたのが、
他球団への執拗な口撃である。



新体制の広島・ヤクルトに対して、
「すぐに代えるな。(開幕投手の黒田も)抑えてても六回で代えとったな。中継ぎ投手も大変。横山とか永川なんかはしんどいで。勝ってたらええけど、負けがこんできたらなあ」
「(兼任監督という)言葉はすごいけど、いくつでやるんや。40歳からプレイングマネジャーって誰がおるんや」
とか。


楽天・野村監督に対しては、
「その時期は一軍半クラスの選手を使うけど、楽天がベストメンバーで来ても勝てるよ。ウチはそのクラスもレベル高いからな。」
なんて語っておいて、実際楽天と対戦してみれば、
必死で戦った挙句勝率5割で終わったのだから恥もいいところ。



代表格として最初に取り上げたのが、
ソフトバンクに対する「しょうもないチームや、チェッ」であるのだが、
(サンスポソースは既に切れているのでこちらより拝借)
相手のピッチングにまでとやかく言う権利は何処にも無い。
「歩かしやんか」と決め付けるその神経がどうかしており、
その後の報復宣言に至ってはもう何というか、清原と同レベルというか…




この「口撃」癖で防御が疎かになるのが岡田の悪い所で、
身内選手の罵倒に至ってはそれこそ数え切れないぐらいある。
それで面白おかしくマスゴミが取り上げ、
槍玉に上がった選手がクソミソに叩かれるのだから…





パリーグを中心に、
現在の監督は外国人招聘の風潮が流行りつつあるのだが、
それとて日本人の監督が情けないのに起因していると言われれば返す言葉が無い。

もちろん名監督候補を惜しげもなく辞めさせるフロントの責任もある。
原なんかはそれが原因で指揮官失格の道を歩むハメとなっているのだが、
それについては後ほど述べよう。

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