<< 新加入において謎が多いセ2強 | main | 先発陣のゲームメイクを語る 〜リーダーズ編 >>

スポンサーサイト

  • 2007.04.08 Sunday
  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

一定期間更新がないため広告を表示しています


勢力の変遷を語る 西武黄金時代〜現在

しつこいがこちら




85年に優勝を果たし古豪復活かと思われた阪神。猛威を振るった打線が掛布雅之故障、岡田彰布の不振で色を失うと、2年ではや最下位転落。フロントの迷走も極め、優勝監督だった吉田義男を辞めさせるつもりは無かったのに首脳陣一掃策で辞任を決意され、翌年にはバース退団問題や掛布引退表明(故障が続くスターに対し精神的ケアを全く行ってなかったらしい)とグラウンド外で話題をさらい村山実監督再就任でも結果が出ない。
このゴタゴタの連続でさすがにフロントも反省したのか、90・91年と最下位が続いて中村勝広監督に対しては早急な人事は行わなかった。そして92年、新庄剛志・亀山努・湯舟敏郎・田村勤といった新戦力の抜擢に活路を見出すとチームは軌道に乗り、最後まで優勝争いを繰り広げるも2位。特に田村故障離脱が痛く、この「リリーフ酷使癖」が以降の中村の泣き所となった。

王貞治監督になってから苦闘が続いていた巨人。江川卓を中心としていた投手陣の世代交代が上手くいかずに苦しんでいたが、ようやくエースが桑田真澄に交代した87年にリーグ優勝。「ピッチャー鹿取」とまで揶揄された鹿取義隆にこだわった起用法は、王の執念の結晶だったと思う。
翌年はクロマティ主軸の故障で優勝を逃すと、王の前に指揮を執っていた藤田元司が再び監督就任。斎藤雅樹を一本立ちさせたエピソードは語るまでも無く有名で、槙原寛己・桑田と並んだ先発3本柱が89年に69、90年に70という脅威の完投数を残したほどの先発完投主義の中心となった。一方の野手もそれを支える機動力・守備陣の形成から始まり、緒方耕一・川相昌弘らを抜擢した。
先発陣の不振で優勝を逃すようになると、藤田も自身の体調面を考慮し辞任。93年からは第2次長嶋茂雄政権が始まるのだが、この政権誕生が球界を根幹から揺るがすきっかけとなってしまう…

85年に古葉竹識監督が勇退した広島。後任の阿南準郎もよく戦った。山本浩二・衣笠祥雄ら主力野手が最晩年ながらも投手王国(北別府学・大野豊・川口和久ら)を駆使して86年に優勝させると、その後もAクラスを保ちつつミスター赤ヘル・山本にバトンを渡した。
古葉に育てられた山本らしく、自身も徹底したスパルタ教育で若手を鍛え上げる。91年にはリリーフエース津田恒実病気離脱というアクシデントがあったが、佐々岡真司の活躍もあり投手王国を維持してリーグ優勝。しかし北別府らは既に晩年であり、投手力が弱体化した93年には最下位に落ち山本は辞任。同時に逆指名制度というダブルパンチを喰らい投手陣の整備はその後も進まず。その傍らで野手は、厳しい土壌から這い上がってきた前田智徳・江藤智・緒方孝市らが成長し強化されつつあった。

巨人V9以降目に見えてBクラスが増えてきた中日。この頃も山内一弘監督が2年連続5位に低迷し、86年シーズン途中で休養の憂き目に遭っていた。
そんな窮状を外野から見ていたのが、87年から監督を務める星野仙一である。彼は「劇薬」ともいうべき大型トレードを次々に敢行してチーム力を強化していった。就任してまもなく「巨人にだけは行かせてはならない」落合博満1−4という交換トレードで獲得。これで打線の軸を作ると、翌オフも西武から小野和幸を獲得。小野は最多勝を挙げる活躍で88年の優勝に貢献した。そのオフも巨人から西本聖を獲得。この年は巨人の独走もあり何とかAクラスの3位を確保。その後は特に大きなトレードも無く、チームも4位・2位とまあまあだったが91年限りで星野勇退。
後を継いだ高木守道監督。初年度の92年は最下位だったが借金は10と悪くなく、翌年は今中慎二・山本昌広の左腕Wエースが並び立ちヤクルトと優勝争いを繰り広げるも2位。だがこの年導入されたFA制度により、主砲・落合巨人に移籍することとなる。

選手会脱退事件で暗いイメージが降りかかったヤクルト。池山隆寛・広澤克実・長嶋一茂・荒木大輔という人気選手を集め払拭したが、反面仲良しクラブ的状況に陥りBクラスをウロウロ。そして断腸の思いで野村克也を招聘。これで暗いチームに逆戻りしたが、選択は間違ってはいなかった。
ドラフト戦略がビシビシと決まったのもこの頃で、89年には西村龍次古田敦也、90年には岡林洋一・高津臣吾、91年は石井一久、92年は伊藤智仁を獲得しチーム力を強化。飯田哲也土橋勝征ら守備名人の抜擢で穴をなくしていった。92年にヤクルト球団2度目の優勝に導くと、93年には常勝西武から日本一の座を奪回した。尚これ以来セリーグは連覇した球団がなく、逆指名FA制度を巧みに使った球団は現在まで現れていないという証拠でもある。強引に導入したのはセリーグである巨人なのに…

この時期(86〜93年)も完全に蚊帳の外に置かれた横浜大洋。優勝どころかAクラスすら1度しかないという低迷ぶりは、もはや偶然が重ならない限り上昇は不可能とさえ思えた。近藤貞雄監督時代に形成された屋敷要・加藤博一・高木豊スーパーカートリオも起爆剤になれず。逆に彼らを帰すポイントゲッターで、好成績だったレオン突如解雇するなどして迷走。
90年に巨人戦になると俄然燃えた野村弘樹の活躍もあり3位に浮上したが、光ったのはこの年だけ。92年には市民球団を目指すべく「横浜ベイスターズ」へと名称を変えた。



埼玉に本拠地を構え、82年の優勝以降も手を緩めず一気にパリーグの盟主的存在となった西武。85年の日本シリーズ敗退で広岡達郎監督は辞任したが、後任の森祗晶監督も広岡流の管理野球を徹底し常勝を維持。86〜88年は日本シリーズ3連覇と、黄金時代到来を完全に根印象付けた。
優勝を逃し3位に甘んじたのは89年だが、この時優勝した近鉄とは勝率2厘差という凄まじさ(2位オリックスと1厘差)で、この年優勝していれば巨人を超える10連覇となっていたのだから悔やまれる。その反発からか90年は独走優勝、日本シリーズでも巨人に4連勝と圧倒。
91年・92年には再びライバル・仰木近鉄との競り合いとなったが、これを蹴落とすと日本シリーズでも苦しみながら広島・ヤクルトを振り切って再びV3。しかしこの年のオフ、フロントで黄金時代を支えてきた根本陸夫ダイエーへと移り翌年監督に就任してしまう。これで片腕をもがれたの如き西武、93年は優勝こそ果たしたが日本シリーズでヤクルトに敗れると、追い討ちをかけるかのように主力選手の流出が始まってしまう…

その根本を招聘したのがダイエー。かつての栄光が嘘のようにBクラスを続けていた南海買収した球団である。
ダイエー初代監督は、南海時代の86年からその座にあったかつてのエース・杉浦忠。戦力が整わない中、87年には10引き分け、89年には7引き分けという粘りのペナントを展開しいずれの年も4位で89年オフに田淵幸一に監督の座を譲る。しかし90年は勝率.325とこの年首位打者の西村徳文(.338)より低いという笑えない成績で最下位。その後も5位・4位で92年限りで田淵は辞任。そして根本監督の誕生となるのである。実質GM兼監督の彼は、采配よりも選手を揃える事に邁進。93年は最下位だったがこの年のオフ、戦力強化にうってつけの逆指名・FA制度が誕生して追い風が吹いた。

西本幸雄監督辞任後は平凡な成績が続いていた近鉄。岡本伊三美監督の下86年は2位に浮上したと思ったら、その翌年最下位に沈み再び弱小時代に逆戻りせんという状況で、仰木彬監督が就任する。
するとたちまち再上昇。しかし88年はあの伝説の10・19を生み出し惜しくも優勝を逃す。翌年も熾烈なペナントとなり、わずか1厘の差でオリックス・西武を振り切って優勝のテープを切る。その後は黄金時代の西武と激しい優勝争いを続けるも今一歩届かず。しかし仰木在任中は一度も下位に沈むことなく、92年限りで勇退した仰木。
三振の多いブライアント、特殊なフォームの野茂英雄の抜擢に特筆されるように、選手の悪癖を弄ることなく長所を最大限に引き出す采配を見せ一世を風靡した仰木。しかし後任は彼と正反対の性格だった事が再び停滞を引き起こし、興行面でも落ち込んでしまう事に…

一度はトラブルで辞任したが81年に再び就任した上田利治監督の下チーム力を保ってきた阪急。だがその財政面は苦労していたのか88年身売りの憂き目に遭ってしまう。
球団を引き継いだオリックス。神戸を準本拠地とし(91年に本拠地へ)人気回復といきたい所であったが、やはりそちらの面では苦労。89・90年にはブルーサンダー打線が猛威を振るい両年とも2位に付けたが、90年限りで上田が勇退し土井正三が監督になるとどこかチグハグしたものに。ブーマー・松永浩美・石嶺和彦など打の主力が次々とチームを去り、強さだけでなくチームとしての魅力も失う結果となってしまった。結局3年間いずれも3位だったが優勝争いには絡めず土井はチームを去る。そして白羽の矢を立てた先は、近鉄で一時代を築いた魔術師であった…

81年の優勝以来、平凡なチームと成り果てていた日本ハム。優勝に導いた大沢啓二監督はフロント入りし戦力整備に務めたが、結果は出ない。その間に高田繁・近藤貞雄・土橋正幸が指揮を執っていたが、92年までの最高順位は3位、それも2度だけという不甲斐なさについに自身が復帰。すると息を吹き返したのかチーム成績も上昇。93年は常勝・西武と最後まで優勝を争い1ゲーム差に泣いたが復活をアピールした。主砲のウインタースの活躍が目立ったが、その後は外国人助っ人の成績が順位に直結するトンネルにはまり込んでしまうとは予想だにしなかったであろう。

86年オフの落合の放出以来良い所が無くなったロッテ。その後は4位すら無いという低迷の淵に嵌ってしまった。
不思議なのは、そんなチーム状態でも高沢秀昭・平井光親・西村首位打者を獲得するバットマンが現れていた事。しかしそれでもチームの起爆剤にはなれず。やはり三冠王選手を簡単に放出した事が深刻な影響を及ぼしていたと推測される。



逆指名・FA制度の導入。巨人が発案し、他球団の過半数がそれに同調する形で成立したもので、この時期に就任した渡辺恒雄巨人オーナー「長嶋茂雄監督で再び常勝巨人を」という思考が働いたものだろう。それで実際に常勝軍団を築ければ野球界も渡辺の天下となったのだろうが…



以下現在までの流れ。
その巨人、93年オフ早速FA宣言をした落合を獲得。これで打線の軸を作り上げ、元来強力だった投手陣と噛み合い94年に早速リーグ優勝。このオフも補強の手を緩めずヤクルトから広澤・ハウエル、広島から川口和久を獲得。連覇に向けて戦力十分と思われたが前半でつまずき3位がやっとだった。
翌96年には11.5ゲーム差を跳ね返しての逆転優勝。メークドラマと謳われたのだが、常勝には程遠かった。
もう一つの補強手段である逆指名もパッとしない。逆指名第1号の三野勝大・柳沢裕一が全く戦力になれず。野手は仁志敏久・高橋由伸・二岡智宏・阿部慎之介と確実に戦力をモノにしていったが、投手は上原浩治が主戦力になったというぐらいで他選手は一時的な活躍だけ。成功率が低いから再び投手を獲るといういわばパッチング舗装を繰り返し行って来たのだが、4番打者の松井秀喜がメジャー移籍してから野手も不安定になり、上記の成功選手も松井のような存在感を示す事が出来なかった。
チームはその後00年・02年に優勝・日本一を果たすのだが、黄金時代の指標となる連覇は一度も無く、そうこうしている内に緊張の糸が切れ史上最大の危機に陥っているのが現在である。

中村監督の下勢いを取り戻したかに見えた阪神。しかし92年の優勝争いで田村を故障させたり湯舟スクランブル登板させて試合を落としたりと無理な投手起用が目立っていた。
94年にも終盤に優勝の芽が生まれると見るや、中西清起・古溝克昭救援陣を連日連投させて無理矢理にでも1勝を取りに行こうとした。そしてこの年優勝を逃して4位になると、翌95年には既に戦う力が残っていなかった…。自身抜擢した新庄・亀山が大不振に陥り攻撃力の低下も免れず最下位。中村は途中休養した。
代わって監督を務めた藤田平も、フロントとの騒動だけが印象に残り96年も最下位。吉田義男が三度就任するも5位・6位で辞任と全くいい所が無く、ついに覚悟を決めて野村克也を招聘したのが98年オフの事。しかしそれでも結果が出ず99〜01年も最下位を爆走した。
上記でも述べたが、野村就任の頃のヤクルトは弱かったが人気選手が揃っていた。そこへ野村特有のID野球を取り入れた結果、強烈な化学反応が起こってチームが上昇した。しかし当時阪神は人気選手、特に和製スラッガーがほとんど居なかった。ヤクルト時代は飯田土橋・宮本慎也などID野球の基礎となり得るアスリートタイプを抜擢して成功。一方の阪神は野村が来る前からアスリートタイプばかりなチーム編成だったから、大砲を育てるのを苦手(つうか元々大振りの選手は好まない)としている野村手腕を発揮できないのはある意味当然だった。新庄を育てるのに2年を費やし、ようやく形が見えてきたと思ったらその新庄アメリカへ。結局01年に下地を作るのが精一杯で、夫人の脱税問題で辞任。
するとフロントは再び外様の大物・星野仙一を招聘する。星野野村と違い半ば強引に阪神を立て直さんとし、ガンガン選手を入れ替えた。するとようやく上向きになり、03年に19年ぶりのリーグ優勝を果たす。その後は低迷する巨人と入れ替わるように上位に君臨し続けるが、心配なのが星野が作った遺産が切れかかっており世代交代もままならないという事。今後が不安である。

その星野が01年まで監督を務めたチームが中日。94年の巨人との決戦を戦ったのが高木監督だが、翌年成績不振で途中休養。96年から星野二期目のスタートである。
前回の監督時には大型トレードを積極的に推し進めた星野だが、今回もその精神は健在。早速5年前広島に移籍していた音鎮樹を取り戻し、外野の中心選手・清水雅治を西武へ放出するなど積極的に動く。96年はその効果か最後まで優勝を争ったが、翌年はほとんど動きを見せずにいると最下位に転落。すると再びトレードを活性化。大豊泰昭・矢野輝弘を放出して阪神から関川浩一・久慈照嘉を獲得し、「恐竜打線」から「ドーム野球」への転身を図った。
その効果が現れ2位に浮上。オフにはFA市場に入り最多勝投手・武田一浩の獲得に成功し、99年ついに優勝を果たす。この時も2位は巨人であった。この年のオフもFA選手獲得を狙ったが、いずれも巨人に獲られたのが響いたか00年は2位止まり。すると三度FA選手を狙い、今度は川崎憲次郎の獲得に成功するが肝心の川崎が故障続きで結果を出せず、5位転落。この年で星野は中日を離れることとなる。他球団選手の獲得で既存選手へ劇薬を与え続けたが、その効果が長続きしないから短期間で選手を入れ替える、という悪循環にはまり根を張った強さが得られなかったというのが星野政権に対する率直的な感想である。
後任には山田久志が就いたが、「生え抜き」「それ以外」のジレンマが噴出したのがこの頃である。山田は阪急一筋の外様であり、何か行動を起こそうとすると容赦なく批判を浴びせられる。生え抜きの山崎武司井上一樹が再三監督批判を繰り返したり、1年目にも拘らず「Bクラスなら解任」という噂が立ったりした自称が印象的である。結局山田は2年でチームを去った。そして現在覇権を握らんとしている落合監督が誕生する…

93年に日本一に輝くと、その後は4位と日本一を繰り返したヤクルト。特に扇の要である古田の成績がチーム状態に直結するシーズンが目立った。特に94・96年は故障で出場機会も落ち込んでしまったのが痛かった。またFAなどで主力が流出する一方、「野村再生工場」と呼ばれる選手再生手腕が目立ったのもこの時期だったが、そうして戦力の上積みを得た年とそうでない年でもハッキリ結果が分かれてしまった。
98年限りで野村ヤクルトを離れる。だが南海がその後転落現象に歯止めが掛からなかったのに対し、この時のヤクルトは踏ん張った。後任は若松勉監督が務め、2年間は4位に留まったものの01年に優勝。この時も要の古田が5番を打ち.324の好成績で貢献した。以降も古田の成績がチームの成績が比例関係を描き、その古田が兼任監督となったのが現在である。

三村敏之監督へと交代した広島。この頃に台頭した前田・江藤・緒方らファーム育ちの選手で強力打線を作り上げると、投手陣も山内泰幸・澤崎俊和という新人王選手を輩出して94〜97年はAクラスに留まる。だがここに来て根性野球・猛練習の弊害が出始める。野手は前田アキレス腱断裂をはじめ緒方・野村謙二郎・西山秀二も故障にまみれ、投手は新人王2人をはじめ新たな戦力が台頭することは台頭するのだが、その戦力をいいように使い回して精彩を失わせるという悪循環に陥っていた。
そして98年に5位に沈むと、後は低空飛行を続けるだけであった。8年連続Bクラスで、しかもその間に首脳陣は「広島の総力」を結集して挑んだにも拘らず結果が出なかったというのが特筆事項。99年には達川光男監督に加え大下剛史ヘッドコーチが休み無しの猛練習を化したが駄目。01年に再び山本が監督に返り咲き、北別府・松原誠という名球界コンビがコーチを務める。04年には元監督の三村がヘッドコーチと、思い付く限りの策を施したが全く浮上の芽が出ず。この状況打破のためには外部の地が必要と思ったのか、アメリカ人のブラウンを監督に招聘したのが現在である。それでも広島OBであることに変わりは無いが…

ずっと沈みっぱなしだった横浜。地道な育成手腕がついに日の目を見たのが97年で、7月以降の快進撃で2位に躍進。特に野村・三浦大輔・石井琢朗・鈴木尚典ら高校生の下位指名選手が奮闘。とりわけ同時期は佐々木主浩・斎藤隆ら即戦力投手に目が向いていたスカウトだったからこれは嬉しい誤算となった。
そして98年にはメンバーが固定され磐石の戦力で38年ぶりの日本一に上り詰めた。リリーフエース・佐々木を軸に完成された投手スタッフと、長打も小技も無くひたすらヒットを打ちまくるマシンガン打線が完璧に噛み合った。しかし「固定されたメンバー」というのは、彼らが衰えたらそれで終わりという危惧とも背中合わせな両刃の剣。おまけに主力選手はFA権を行使してしまうこの時勢であり、しっかりした土台が無ければ衰えるのも早い。
チーム成績が上がったにも拘らず、相変わらず3年以内で交代する大矢明彦・権藤博ら監督。選手の年俸高騰に根を挙げてついに経営譲渡という形となった親会社・マルハ。これだけマイナス要素が短期間に現れると転落も早く、5年連続Aクラスの後の02年、いきなり最下位に沈む。そして翌03年は1シーズン94敗というとんでもない低迷ぶりを披露。その後3年間も2度最下位と苦しみ、世代交代の難しさを改めて実感させた。

黄金時代を築いていた西武がやや衰え、再び混沌とした空気となったパリーグ。94年こそ西武が優勝したこの時も夏場までオリックス・近鉄との首位争いに苦戦し、9月の11連勝でようやくゴールに辿り着いたというシーズン。当然日本シリーズに勝つ力は残ってなく、この年オフに森監督が勇退。
さらに選手の流出が始まる。秋山幸二・工藤公康・石毛宏典・辻発彦・清原和博と黄金時代の主役達が96年までにゴッソリと抜ける。一度解雇したデストラーデを呼び戻す(95年)など迷いも見え、2年間優勝から遠ざかる。それでも黄金時代で培われてきた知恵がなせる業なのか、すかさず松井稼頭央・高木大成・西口文也・石井貴新メンバー中心の布陣を作り上げ97年再び優勝。徹底した機動力野球でこの年積み上げた盗塁は200にも昇る。98年も優勝を果たしたが、いずれも日本一にはなれず。投手力・機動力は確かに目立ったが、スラッガー不在の非力な打線という弱点もあった。それが露呈したのが99年で、松坂大輔が投手陣に加わったもののダイエーにかわされ2位。しかも本来1番打者の松井がこの頃からクリーンアップに入ることが多くなり、おかげで1・2番も機能しなくなっていった。中心軸にカブレラという優良助っ人が入り、役割分担が蘇って優勝を果たしたのが02年。その後もカブレラ中心の打線は変わらないが、磐石の布陣だった投手陣に乱れが出始め現在に至る。それでもBクラスが一度も無いのは凄い事である。

西武黄金時代を築いた根本陸夫を監督に招いたダイエー。93年は勝率3割台の圧倒的弱さで最下位となったが、その年のオフに西武と3−3のトレードを敢行。長らく主力だった佐々木誠を放出してまでも秋山の獲得にこだわり、FA宣言した阪神・松永浩美も獲得しメンバーを固めにかかった。この年は優勝争いに加わるも息切れして4位。すると根本は西武時代と同じく現場から身を退き、を監督に招聘する。
巨人時代の王は5年間全てAクラスだったが、それは戦力がある程度整っていた巨人だから当然として見られており真の監督としての手腕が試される事となった王。そんな王をサポートせんと94年オフもFA市場に入って西武から工藤・石毛を獲得したが、95年は5位。96年も最下位に沈み、ファンからは「王辞めろ」という批判が噴出した。
それでも根本は動かず、王の度重なる投手補強の要望も聞き入れずドラフト補強を進める。逆指名導入以後小久保裕紀・城島健司・井口忠仁・松中信彦・柴原洋ら後のダイエーの骨格と成り得る野手獲得に邁進し、それが進むにつれチームも同率ながら4位→3位と順位を上げていった。
そして日の目を見たのが99年で、上記の選手達が定着した野手こそ奮わなかったが工藤を中心とした投手陣が10勝投手を5人出すなど奮闘しリーグ優勝・日本一。オフに中心的存在の工藤がFA宣言で抜け不安視された00年、今度は王の采配が冴えた。打って変わって10勝投手が不在となったものの吉田修司・渡辺正和・篠原貴行・ペドラザリリーフ陣を縦横に使いこなしてしぶとく勝利を拾い続け2年連続優勝。その後はひたすらドラフトで先発投手陣強化を図り、現在も強豪球団に居座り続けている。

Aクラスは保っていたものの、年々地味なチームと化しつつあったオリックス。そこへ現れたのが仰木新監督である。ブルーサンダー打線が完全に色褪せたとあって新たなスターを排出するのが彼の指名であったが、その目にかかったのが高卒3年目のイチローであった。この抜擢に応えたイチローヒットを打ち続け、積み重ねた本数は実に210。チームも最後まで西武と優勝を争い2位。
翌年は新外国人・ニールの活躍もあり投打がガッチリ噛み合い、衰退を止められなかった西武を尻目に優勝を果たす。19歳の平井正史をリリーフエースに固定するなど仰木の思い切った抜擢はオリックスでも注目された。そして96年、その平井はじめ佐藤義則・長谷川滋利従来の主力投手の不調で苦戦するも、野手・投手とも適材適所に人材を起用し切り抜ける。投手では元ヤクルト・鈴木平の新ストッパーに脇を野村貴仁・小林宏で固め、野手では得点力が落ちた攻撃陣にイチローの打順を3番に変更するなど刺激を与え、ついに日ハムをかわして優勝。日本シリーズでも巨人を圧倒する。まさにオリックスの最盛期といえた2年間であった。
だが連続優勝で人件費が上がるのが嫌だったのか、この時の主力選手は97年以降軒並み移籍の憂き目に遭いそれにつれてチームも徐々に順位を下げていく。おかげで仰木も少数精鋭のやりくりを強いられる事となり、仰木勇退直後のその陣容は焼け野原に近い状態となっていた。当然後任監督がどうこう出来る状況ではなく、石毛宏典・レオン・伊原春樹・中村勝広と全員が2年と持たず解任されている。近鉄との合併もありやむを得ず再び指揮を執った仰木は健康を害し死去(合掌)。まさに八方塞のオリックスに救世主は現れるのだろうか。

その仰木が辞任した直後の近鉄はまさに地獄であった。後任の鈴木啓示監督は「雑草魂」と呼ばれた自身の現役時代通りただひたすらに精神論を唱えて選手の忠誠心を失わせた。肩の痛みを訴えた投手に「主力なんだから投げながら直せ!」などという狂った発言もみられ、野茂の移籍、ブライアント・赤堀元之ら主力の故障という負の要素が噛み合った95年見事に最下位に転落。ファン離れもこの頃深刻となり、大阪ドーム開場(97年)という劇薬効果もたった1年でしぼんでしまった。
野茂をはじめ阿波野秀幸・石井浩男ら主力の追い出しも見られ、99・00年と連続最下位。01年に一転優勝を果たしたが、この時のチーム防御率は優勝チームとしては史上最低の4.98で、主砲のローズ・中村紀洋を中心にとにかく打って打って打ちまくるチームであった。だがそれでも景気は良くならずその後も大塚晶文・ローズ流出が続き、ついに04年経営が行き詰まりオリックスとの合併を決意。周囲の反対も虚しく近鉄の歴史は終わりを告げる。

その合併騒動の副産で誕生した新球団・楽天。その初期陣容がほとんど他球団で不要となった選手の溜まり場と化していた事もあり、現在2年連続最下位。これからの浮上に期待しよう。

全くもっていい所が無く沈みっぱなしロッテ。川崎から千葉へ本拠を移しファンも多少増えたもののチーム的に何処が変わったのか、と言われれば説明しづらい。95年にアメリカからバレンタインを監督に招き2位に上昇するも、そのオフバレンタイン広岡達郎GMとのトラブルで辞任してしまう。
この時期のロッテのすがる所は投手力。最速158キロのストレートで鳴らした伊良部秀輝をはじめ小宮山悟・ヒルマン・成本年秀・前田幸長といった強力かつ魅力的な選手を揃えて打線の弱さを補っていた。だがこれも弱小チームの性なのか、この主力投手をトラブル絡みであっさり放出するという事件も目立ったのがロッテ。伊良部のメジャー流出、小宮山への自由契約通告等…
98年にはシーズンワースト記録の18連敗を記録するなどして最下位、その当時監督をしていた近藤昭仁がシーズン後「もっと強いチームで監督をやりたい」などとコメントするなどロッテ暗黒期を象徴する出来事が続いた。その後山本功児が監督の座に就くもBクラスは続く。投手は黒木知宏・小野晋吾・清水直行・小林雅英、打者は小坂誠・福浦和也・サブロー・里崎智也と新戦力が出てくることは出てくるのだが、肝心の彼らを束ねる段階でつまずきを重ねた、というのが山本ロッテの印象。フロントも辛抱を重ね5年待ったが結果は出なかった。
そして抜本的なチーム強化を図るべく、アメリカからバレンタイン再招聘という決断に至る。既に広岡GMはおらず全権を掌握するという形となったバレンタインは、04年は日ハムと激しいAクラス争いを繰り広げたが今一歩及ばずまたも4位。それでも西岡剛・今江敏晃の抜擢に見られるようにチームの流れは良化。翌05年は10勝投手を6人も揃えて見事日本一に繋げた。普通ならこの余熱が何年か続くものなのだが、小坂李承主力を放出してしまいバレンタインの神通力も途絶え4位転落。今後はどっちに向かっていくのだろう。

93年こそ2位に躍進したが94年いきなり最下位に沈んだ日本ハム。大沢監督の土下座は今でも鮮明に記憶に残ることとなり、上田監督にスイッチ。96年には西崎幸広・グロス・岩本勉・今関勝一10勝投手を4人排出しオリックスと優勝争いを繰り広げたが及ばず2位。「今年こそ」の思いで挑んだ97年だったがこの4人が揃って低迷し4位に沈み投手の再編を強いられる事に。一方の打線は新外国人ウィルソン本塁打王に輝くなど力を付け、翌98年は片岡篤史ら従来の主力と噛み合い春先から首位を快走。一時は2位に10ゲームという大差を付けたのだがそこからまさかの逆転を許し2位に甘んじた。その後も99年5位・00年3位・01年6位と1年おきに低迷と躍進を繰り返し戦力の基盤が安定せず、そうこうしている内に東京ドームをバックボーンにリーグ内でトップを誇っていた観客動員も減少を続け、02年シーズン途中ついに札幌への本拠地移転を決意した。
札幌での再出発の舵取りに指名されたのはヒルマン。東京ドーム最終年となった03年を丸々使って選手を見定めると、フロントも奮起して新時代のスターとして新庄剛志を獲得。人気面でも盛り返しを魅せた。札幌初年度は新時代に相応しくAクラス入りを果たし、1年置いた06年、ついに優勝に辿り着く。だがロッテと同じく小笠原道大の流出など苦難を味わっている今オフ。今後の動向から目が離せない。

スポンサーサイト

  • 2007.04.08 Sunday
  • -
  • 18:18
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

コメント
管理者の承認待ちコメントです。
  • -
  • 2007/01/22 5:57 AM
コメントする









この記事のトラックバックURL
トラックバック
-
管理者の承認待ちトラックバックです。
  • -
  • 2007/01/22 10:24 AM
calendar
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
252627282930 
<< June 2017 >>
sponsored links
selected entries
categories
archives
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM